スポンサーリンク
馬券で生活しようなどと馬鹿な夢を追いかけて、人生を寄り道した形になりましたが、以前から紹介のあった小さな会社に入社しました。

社長からは「広告宣伝部を立ち上げるので、その部門をすべて任せる!」というお墨付きをもらい、意気揚々と出社しました。

しかし、「ああ、こりゃ大変だ!」
と、1日でなってしまいます。
当時は「ブラック企業」なんて言葉は無かった時代でしたが、この会社はヤバいな・・・と初日で感じさせるものがありました。
約1年半勤める事になりますが、最後の1年は休み無しでしたからね。
最初からそういう雰囲気のある会社でした。

それまでも自社ブランドの広告を作っていたのですが、まあ、外注に出してるような状況で、ここからは僕がすべて取り仕切って、広告を作っていかなければなりませんでした。

それまでは通販広告でしたので最初は要領を得ず苦労しましたが、徐々に慣れ、次第に形になっていきました。

ここの社長は青年実業家で、多くの会社を経営するやり手でした。
裏で様々な儲けのテクニックを持っていたらしく、当時はまだ20代なのに、毎晩のように銀座や六本木に繰り出して豪遊(と言っても、若さに似合わずスマートな飲み方、遊び方をしてましたね)!

しかも、マンションをいくつも持っていて、一つ一つのマンションにそれぞれ女性を囲っているような状況。
そういう社長のマネージメントをする専属の秘書もいる。
社長の飲み代を準備する金銭管理のプロはいる・・・という状況でした。

僕も徐々に培った力を発揮し、週に9本の広告を作り、雑誌や新聞に掲載し、更に月イチペースでダイレクトメールも作り、月間の会員専用の会報誌も作るというハードスケジュールをこなしました。

しかも週に3回は夜に社長のお供をして、一緒に銀座、六本木に繰り出さなきゃなりません。
忙しすぎて首も回らない状態の中、それもやる訳ですから、そりゃあ、体も壊しますよね。

しかし頑張った甲斐があり、会社は見る見る大きくなっていきました。
広告宣伝部も新人を4人入れ、盤石の状態となり、僕も部長待遇となりました。

DSCN0573


英会話スクールの営業時代も頑張ったけど、この時は、その倍は頑張ったよね。

給料はは3か月に1度くらいのペースで、上がっていきましたし。
最初は様子見みたいな感じで、とりあえず他の社員とのバランスがあるので・・・という事で額面25万円からスタートし、30万→33万→40万→42万→50万→75万となりました。

残業はサービス残業でした。
あれはアカンと思うんですが、社長秘書がタイムカードを管理していたので、出社も退社も勝手に押されていましたね。
別枠でボーナスもあり、更に金一封とかで10万とかを何度かもらいましたので、文句はありませんが。

会社の成長とともに社長は六本木はあまり行かなくなり、銀座が中心となりました。
まあ、20代の男たちが銀座の高級クラブで遊んでるんですからね。

「あいつら何者?」みたいな感じでしょうか?
と言っても1回50~60万くらいしか遊んでないですけどね。

一晩に何百万も使ってるどこぞの大社長には敵わないですよ。

まあ、我々は「どうせ、悪い事やって儲けてる奴らだろ?」的な扱いを受けた事もありました。

というか、社長は裏で色んな事業をしてましたからね。
後々それが祟って落ちぶれていく事になったみたいですけど。

そして、僕の体が一気に悲鳴を上げました。
痙攣を起こし、泡を吹き、ぶっ倒れた。

毎日朝まで仕事して会社で2時間ほど仮眠を取るか、社長と銀座に繰り出し、大酒飲まされるか・・・ですから。
まあ、仕方ないでしょう。

入院先で最初丸2日、意識を失くしたかの如く寝ていたそうです。
そのまま退職し、四国に帰る事にしました。

というのも、このタイミングが凄く良かったですから。
丁度若手も育ってきてたし、ここでやめないと、一生この暮らしになるのは目に見えていました。
多分、どっかで過労死してしまうに決まってますもんね。

と言ってもそう簡単に辞めさせてもらえた訳ではありませんが。
今で言うブラック会社ですから。

ここからは、僕の人生が闘病記になっていきます。
すでに、僕の腎臓は崩壊へのカウントダウンが始まっていたのかも知れません。



↓↓↓お手数ですがお帰り前に応援ポチをよろしくお願い申し上げますm(__)m
にほんブログ村 病気ブログ 人工透析へにほんブログ村 その他日記ブログ 無職日記へにほんブログ村 その他生活ブログ 貧乏・生活苦へ
仲間たちの面白ブログが満載です↑↑↑

        スポンサーリンク