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「父が脳梗塞で倒れ家族が崩壊!(希望編)の続きです。
昨年の10月も終わりに近づいていました。
ここで、病院側から父の今後についてのお話がありました。
そう言えば、7月13日から入院し、もう3か月以上になってます。
確か何かの規定で、入院は3か月というのがあったと思いますので、その話なんでしょう。
昨年の10月も終わりに近づいていました。
ここで、病院側から父の今後についてのお話がありました。
そう言えば、7月13日から入院し、もう3か月以上になってます。
確か何かの規定で、入院は3か月というのがあったと思いますので、その話なんでしょう。
実は父が入院した病院は、小さいながらも、
「治療型入院施設」と
「療養型入院施設」と
「医療型老人ホーム」の3つがありました。
父の状態も安定してきたし、そろそろ「療養型」のほうに移しましょう。
という話でした。
つまり、その3つを使って、その3か月という制度に対応出来るという訳です。
順調に行き始めた父は、笑顔も取り戻しつつあって、この分なら僕らも父の今後について話を決めていかなければなりません。
家も、万一父が帰ってきた時に備え、段差などを改築しなければなりませんし、そうなってくると我が家の資産状況なども考慮に入れなければなりませんからね。
はっきり言って、透析患者の働かない息子を持っていましたから、我が家にそこまでの金銭的余裕はありません。
障害年金ももらっておりませんし。
数匹のネコも(元々は父の趣味)飼っておりますし。
まあ、そういう事で、父は療養型に移る事になりました。
そうなると、僕らも負担が楽になります。
こちらは療養型なので、看護婦さんのケアも多いですから。
治療型ももちろんしっかりケアはしてくれましたが、療養型だと父のような重症患者さんだらけですので、手慣れたものです。
相変わらず、父は体も硬直したままですし、熱や肺炎は治りましたが、絶飲絶食は継続。
しかし、肺炎のため出来なくなっていたリハビリが再開されました。
硬直した体を少しでも動かせるようにするために、ストレッチのようなマッサージを受けていました。
ところが、これまでの厳しい状況が長く続いたのが響いたのか、父の尿量が減っていきました。
おしっこの管を付けられていましたから、僕らでも1日の父の尿量は分かります。
看護婦さんが、ちゃんと記録してくれてますし。
強い栄養剤を投与していますし、ある程度の尿量は無いといけない状況なんですけどね。
とりあえずは尿を出す薬で対応していましたが、11月に入り、徐々にその効果が薄れていったようです。
11月に入ると、姉も順調に調子を取り戻し、また3人で父の面倒を見れるようになりました。
僕は透析患者です。
この父の尿量が減るという状態が指し示すものは?
すごくよく分かる状況です。
長きに渡って肺炎を起こし、高熱を出し続けた事によって、腎機能に障害を受けたか、または前立腺がんが悪化し、尿量を妨げたかのどちらかでしょう。
どちらにしても、暗雲が垂れ込めている事に気が付いていたのは、家族の中で僕だけでした。
順調に行っているのに、余計な事を言って家族を不安にしたくなかったのです。
僕は父の死期が近い事を感じ取っていました。
それだけに、昼に病院に行って父の様子を見、夜になるともしかしたら、病院から電話がかかってくるのでは?
その場合、どういう内容の電話なのか?
色々考えて不安な日々が続きました。
すでに家族間では、父の状況も見ながら、今後どうしていくかの話し合いも終わっており、帰宅とホームへの移転の両方を考えていました。
そして、心配しながらも1週間以上が経過した頃、やはり予想通り、11月8日夜9時半頃、電話が鳴りました。
田舎なので、9時半頃電話がかかる事は滅多にありません。
うお!
病院からか!
そう思いながら僕が電話に出ると、やはりそうでした。
婦長さんが慌てた様子で、
「お父様の様態が急変しました!」
僕はこういう事もあると身構えていたので、慌てる事なく、
「分かりました。スグ向かいます。」
と答えました。
姉や親戚などに直ちに電話し、僕と母もタクシーで病院に向かいました。
到着すると、父はすでに息絶えていました。
手が3倍ほどに膨らんでいました。
医師より、
むくみが酷くなり、おしっこを出す薬を投与しましたが、持ちこたえられなかったようです。
息が激しくなりそのまま逝かれました。
と報告されました。
父の妹である(唯一の生き残ってる兄弟)叔母が到着したのを見計らって、
11月8日 22時33分 ご臨終です。
父の顔は、苦しんだ様子もなく、落ち着き払ったような顔をしていました。
まだ暖かく、信じられないという周りの雰囲気の中、僕は、
「オヤジよぉ、よう頑張ったのぉ、しんどかったやろ。やっと終ったのぉ。」
そう声をかけました。
4か月近い、長きに渡った家族の戦いもあっけなく終わりました。
11月に入り、もう、寒いなと思う夜の、悲しい出来事でした。
(夜の記事に続く)
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「療養型入院施設」と
「医療型老人ホーム」の3つがありました。
父の状態も安定してきたし、そろそろ「療養型」のほうに移しましょう。
という話でした。
つまり、その3つを使って、その3か月という制度に対応出来るという訳です。
順調に行き始めた父は、笑顔も取り戻しつつあって、この分なら僕らも父の今後について話を決めていかなければなりません。
家も、万一父が帰ってきた時に備え、段差などを改築しなければなりませんし、そうなってくると我が家の資産状況なども考慮に入れなければなりませんからね。
はっきり言って、透析患者の働かない息子を持っていましたから、我が家にそこまでの金銭的余裕はありません。
障害年金ももらっておりませんし。
数匹のネコも(元々は父の趣味)飼っておりますし。
まあ、そういう事で、父は療養型に移る事になりました。
そうなると、僕らも負担が楽になります。
こちらは療養型なので、看護婦さんのケアも多いですから。
治療型ももちろんしっかりケアはしてくれましたが、療養型だと父のような重症患者さんだらけですので、手慣れたものです。
相変わらず、父は体も硬直したままですし、熱や肺炎は治りましたが、絶飲絶食は継続。
しかし、肺炎のため出来なくなっていたリハビリが再開されました。
硬直した体を少しでも動かせるようにするために、ストレッチのようなマッサージを受けていました。
ところが、これまでの厳しい状況が長く続いたのが響いたのか、父の尿量が減っていきました。
おしっこの管を付けられていましたから、僕らでも1日の父の尿量は分かります。
看護婦さんが、ちゃんと記録してくれてますし。
強い栄養剤を投与していますし、ある程度の尿量は無いといけない状況なんですけどね。
とりあえずは尿を出す薬で対応していましたが、11月に入り、徐々にその効果が薄れていったようです。
11月に入ると、姉も順調に調子を取り戻し、また3人で父の面倒を見れるようになりました。
僕は透析患者です。
この父の尿量が減るという状態が指し示すものは?
すごくよく分かる状況です。
長きに渡って肺炎を起こし、高熱を出し続けた事によって、腎機能に障害を受けたか、または前立腺がんが悪化し、尿量を妨げたかのどちらかでしょう。
どちらにしても、暗雲が垂れ込めている事に気が付いていたのは、家族の中で僕だけでした。
順調に行っているのに、余計な事を言って家族を不安にしたくなかったのです。
僕は父の死期が近い事を感じ取っていました。
それだけに、昼に病院に行って父の様子を見、夜になるともしかしたら、病院から電話がかかってくるのでは?
その場合、どういう内容の電話なのか?
色々考えて不安な日々が続きました。
すでに家族間では、父の状況も見ながら、今後どうしていくかの話し合いも終わっており、帰宅とホームへの移転の両方を考えていました。
そして、心配しながらも1週間以上が経過した頃、やはり予想通り、11月8日夜9時半頃、電話が鳴りました。
田舎なので、9時半頃電話がかかる事は滅多にありません。
うお!
病院からか!
そう思いながら僕が電話に出ると、やはりそうでした。
婦長さんが慌てた様子で、
「お父様の様態が急変しました!」
僕はこういう事もあると身構えていたので、慌てる事なく、
「分かりました。スグ向かいます。」
と答えました。
姉や親戚などに直ちに電話し、僕と母もタクシーで病院に向かいました。
到着すると、父はすでに息絶えていました。
手が3倍ほどに膨らんでいました。
医師より、
むくみが酷くなり、おしっこを出す薬を投与しましたが、持ちこたえられなかったようです。
息が激しくなりそのまま逝かれました。
と報告されました。
父の妹である(唯一の生き残ってる兄弟)叔母が到着したのを見計らって、
11月8日 22時33分 ご臨終です。
父の顔は、苦しんだ様子もなく、落ち着き払ったような顔をしていました。
まだ暖かく、信じられないという周りの雰囲気の中、僕は、
「オヤジよぉ、よう頑張ったのぉ、しんどかったやろ。やっと終ったのぉ。」
そう声をかけました。
4か月近い、長きに渡った家族の戦いもあっけなく終わりました。
11月に入り、もう、寒いなと思う夜の、悲しい出来事でした。
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